最小のミスで、最大のミスにしないようにする。2008-08-20 Wed 13:39
ある大きなミスを犯したとき、
人は悔やんでも悔やみきれない後悔をする。 たとえそれが、人に指摘されなくても、されてもだ。 しかし、ここでプラスに考えるならば、 そのミスを、最小に抑えることができたかもしれないということ。 もしかしたら、人は最大のミスをしたと思っておきながら、 そのミスを最小に抑えることができていたのかもしれない。 最悪、どうなっていたかを考えれば、多少は心も落ち着くだろう。 とは思うものの、そうそう簡単には割り切れないミスというものなり。 |
どうしたらいい……?2008-08-12 Tue 20:53
私は、実はある障害を持っている。
それは、外見的にも現れていないし、 精神科などでも、特に言われていないから、多分、私が、自分で勝手に障害だと思っているのだろう。 ただ、通い始めたカウンセリングルームでは指摘された。 私は、一つのもの、例えば、映像、文章、言葉、情景、その場の空気から、 普通の人ならば、1つか2つしか、情報が入ってこないものを、 “想像しうるだけ、すべての情報”を、 無意識のうちに記憶に取り込んでしまうらしい。 10や20ではない、時として100以上のものを取り込んでしまうということだ。 それは早い話が、観察眼や感受性の感度が異常に高いということなのだが、 こういう話をすると、逆に、あこがれさえ抱かれることもある。 例えば、観察眼や感受性が敏感な事は、作家などにぴったりかもしれない。 しかし私の場合、 良いことも悪いことも、何もかもすべて取り入れてしまって、 それから良いものだけを汲み上げる事ができないでいる。 (作家などは、時代が求めているものを取り上げ、しかも相当な文章力も持っているはずだから、ただ観察眼や感受性だけを持っているのではないはずだ) こんな私。実は、小学生ぐらいから、些細なことを気にしては ダメージを受けるタチだったので、 不登校だったのは言うまでもあるまい。 大学は講義を受けていれば良いだけだが、 時として耳をふさがなければならないこともある。 大学は4年の卒業研究は、完全に個人競技だし、 論文指導者が相当に甘い所をわざと選んだから、クリアできそうである。 それで、就職は、実は私はすでに就職して働いているので、 今の職業が続けられるのならば問題ない。。 (フリーの仕事ですけど) しかしだ。 ここまで来れたのは良いものの、 相変わらず私の頭は、極度とも言えるほどの感度を持っており、 ネット上の何か、テレビの何か、人の何か、 を感じ取っただけで、相当なダメージを受けてしまう事がある。 本日も、“他に人にとっては些細な事かも知れないが、私にとっては重大なダメージを受ける”ような出来事があった。 つまり、私は今日、自分のあまりの“弱さ”に、戸惑った。 まだ私自身、若いのは確かだ。 しかし、これからの人生、こんなに“弱く”て平気なのかと思ってしまう。 そして、そんな私を“強く”しようと、 実は何度も、苦境に飛び込もうとしていた事もある。 だがその結果は、 さらに私自身を“弱く”してしまうというものだったのだ。。 実際、カウンセリングルームでは、 無理をして自分を“強く”するのではなく、 感受性の高い自分を、“活かす”生き方をすれば良いと言われている。 うむ。こういった時こそ、やはりカウンセリングルームで、 相談するべきだろう。。 |
死について考える 6 「死について考えるとき」2008-07-21 Mon 21:25
私がどうしてもそんな事を考えてしまうとき、
それは、何故か寝起きである事が多い。 私は寝起きから目が覚めているような人間だから、 思考も立派に回転する。 だが夢の中の幻想と、現実との中間にあるような状態が、私をそんな、 「生きているという事自体の不思議さ、偶然さ」 を感じさせてしまうらしく、 「自分が生きているという事自体が、途方も無く低い確率で生まれたもの」 と思わせてしまうようだ。 もしかしたら、自分自身の存在さえもが幻に過ぎないのか―? 無意識と意識の間には、そんな気持ちにさせる、不思議なものがあるのかもしれない。 |
『死』について考える 5 「平等なるもの」2008-07-16 Wed 22:14
人間、誰しもが平等が良いという話は良く聞く。
しかし現実はそう行くはずもなく、 どんな人間にも格差は存在している。 だがどんな時代であっても、人間には平等な事があるし、 それは永遠に続いていく事だろう。 それこそ、まさに「死」である。 人間、そしてそのほかの生命体にとって、死は必ず訪れるものである。 この「死」、いつ訪れるか分からないのも平等な点だろう。 生活事情で「死」に隣している場合も有るのだが、 その「死」に至るまで、いつ訪れるのか、それはどんな人間にも分からない。 |
『死』について考える 4 「当り前の出来事」2008-07-13 Sun 21:46
「死」というものよりも「生」、
つまり生きているということについて考えると、 我々は、何かしら、体を動かしていないと生きていけない。 寝ていても、自律神経とかで体は動いていて、どこかは必ず動いている。 たとえば、手を動かしてみよう。 その指に至るまで、我々は、繊細に動かすことができる。 それはあたりまえの事。 だが、実は脳が命令してそれが神経を伝わり、手の筋肉に電気信号を送って、筋肉を収縮させているわけだ。 我々はこれをあたりまえの事として、手を動かし、それを何千回と繰り返してパソコン作業をしたりする。 それもあたりまえの事としてできる。 だが、この神経、実はとても繊細で、しかも首の部分の脊椎には、頭から下の神経がコードの束のようになっている。 この神経、一度に切れるようなこともあるわけで、、 当たり前だと思っていた事が、当たり前でなくなる、ということは、 ほんの些細な出来事なのかもしれない。。 本日、プールで泳いだ後肉体疲労した体、どことなく指を動かすことさえも、いつもより不思議と重い事から、 そんな想像が生まれた。 |



