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「明智光秀」(日本・戦国時代史)

『戦国無双』
mituhide.jpg
CV:緑川光
謀反により時代を大きく変えた明智光秀は、
優しく真面目な知略家として描かれる事になりました。
美濃、『斎藤家』に仕えていたという設定で、
もちろんその《本能寺》の謀反も描かれます。
また、《四国》の[長宗我部元親]と交流があったとも。

『戦国大戦』
mituhide_taisen.jpg
所属は『織田家』で登場することになり、
若いというイメージが彼にはあるのでしょうか。
実際の所『織田家』で活躍していたのは、40代過ぎだったりします。

『小説 明智光秀』

その出生の謎と、『本能寺の変』での行いから、
伝説的人物として、様々に小説が描かれています。


本名:明智光秀
通称:十兵衛、惟任日向守、彦太郎(初名)

所属:斉藤家→朝倉家→足利幕府→織田家
生年:享禄元年(1528年)
没年:天正10年6月13日(1582年7月2日)
(享年:54歳)
出生:岐阜県可児市明智の《明智城》?

父:明智光綱 母:お牧の方 養父:明智光安

兄弟:明智信教、明智康秀、あん

正室:千草(山岸光信女)
継室:煕子(妻木範煕女)
側室:伏屋姫(服部保章女)、原仙仁女

子:明智光慶、珠(細川ガラシャ)(細川忠興正室)



あの天下に一番近い武将であった、[織田信長]に謀反を起こし、

未だに日本史の謎の一つとされる、『本能寺の変』の首謀者と伝わります。

謀反というのは、よい印象を与えるものではありませんが、

善政を行ったとも言われています。


○来歴『斎藤家』時代
1528年?~1556年(誕生~28歳)

一応これは「明智軍記」「細川家文書」によるもので、

実際、彼の青年期は謎が多いとされています。

通説によると、[明智光秀]は[斎藤道三]に仕えるものの、

彼らの父子の争いで、[道三]側につき、子の[義龍]に《明智城》を攻められ没落、

光秀は母方の氏族を頼って、《越前国》の[朝倉義景]に仕えました。


●『朝倉家』時代
1556年~1569年(28歳~41歳)

やがて、『室町幕府』の13代将軍[足利義輝]が、「松永久秀」「三好三人衆」らに、

襲撃、殺害されて、その弟[足利義昭]は、『朝倉家』を頼るようになり、

[明智光秀]は、『室町幕府』と交流があります。

[足利義昭]は、[足利義景]上洛を望んだものの彼は動かず。


そこで、[明智光秀]を通じて、『斎藤氏』から《美濃》を奪った[織田信長]を、

上洛させて[足利義昭]自身を征夷大将軍につけるように仕向けます。

[織田信長]の正室である[濃姫]が、[光秀]の従兄妹であったとも言われており、

その縁の可能性もあるのだとか。


●『織田家』家臣時代
1569年~1582年(41歳~53歳)

この後、[木下藤吉郎(羽柴秀吉)]らと共に、[織田信長]が支配下とした、

《京都》奉行の職務を行なっているものの、

[織田信長]と[足利義昭]が対立をしてしまい、[光秀]自身も袂を断ってしまいます。

彼には、《近江国》の領地5万石が与えられ、《坂本城》などを築き、

[織田信長]に背いた大名達を、『織田軍』として攻めていき、

やがて《近畿地方》を平定。


[光秀]は、これらの功績で、《丹波》の国主となり、34万石を領地とするほどになりました。

これは彼が『織田家』の重要な地位にいた事を示しています。


●『本能寺の変』
1582年6月2日(53歳)

しかし、順風であったにもかかわらず、[織田信長]から、

[羽柴秀吉]の『毛利』征伐の支援を命じられて出陣する途上、

突如、“敵は本能寺にあり”の発言とともに、[信長]に対して謀反。

雑兵達は、この行為の目的を、[信長]の討伐だと最後まで知らなかったのだそうです。


《京都》の《本能寺》を1万3000の大軍で襲撃した[光秀]は、

[織田信長]を追い詰めて自害させ、彼の一族まで、残党討伐をしようとします。

結果的にこの出来事が、[明智光秀]という人物を非常に有名にしました。


●『山崎の戦い』とその最期
1582年6月(53歳)

[明智光秀]は自らが天下を平定しようとしましたが、

それに応じる者は少なく、『本能寺の変』の急報を知り、大返しをしてきた、

[羽柴秀吉]の軍と、わずか11日後に《天王山》の麓《山崎》で対峙、

[秀吉]が遠征で疲れていると、甘く見ていたのか、

[黒田官兵衛]らの《天王山》を取る策に敗北し、敗走。


そして、落ち武者狩りに遭い、負傷をしたまま死去したと言います。


○人柄

多くの物語で、[明智光秀]は、どことなく、乱暴な[織田信長]に対しても、

善政を施すように努めて、何かと対立した、

善い行いをする人としても描かれていますが、

これは、知られている歴史からしても間違いではありません。


しかしながら主君である[織田信長]を謀反によって、殺害したことは、

逆賊の行為とされており、[徳川家康]は、危機敵状況で、

命からがら『伊賀越え』をしています。

これは『徳川幕府』下では、彼が逆賊として描かれていました。


文化人であり、和歌や茶を楽しんだ人でもあり、

善政を行った人であるということが分かっています。

出生が不明である他、また、何故『本能寺の変』を起こしたのか、

謎の多い人物であるのは確かなようですね。
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現在は、海外ドラマは『24-TWENTY FOUR-』『PRISON BREAK』
アニメは『プリキュア』などのレビューになっています。

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