トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

1565年「関・加治田合戦」 日本・戦国時代史

『関・加治田合戦』
場所:美濃国中濃地域(現:岐阜県一帯)

年月日:1565年(永禄8年)8月~9月

結果:『織田軍・加治田衆軍』の勝利、『長井軍』の敗退
交戦勢力:
『織田軍・加治田衆軍』対『長井軍』
戦力:700~2000 対 4000~8000



『堂洞合戦』から引き続いて行われた[織田信長]勢力を中心とした合戦で、

彼の《美濃》攻略の一環になります。


戦いは主に、《加治田城》の攻城戦と、《関城》の攻城戦になります。

『堂洞合戦』の後、[佐藤忠能]屋敷に一泊し、

《犬山》へと帰還を指定たところを、《関城》から[長井道利]らが、

[斎藤龍興]援軍で、総勢三千人ほどで攻撃を仕掛けてきました。


[織田信長]には、その時の状態から戦は不可能であったため退却し、

[斎藤利治]らを急遽派遣します。


まず《加治田城》側では、[斎藤利治]と[佐藤忠能]嫡子[忠康]が攻め、

一方で『長井勢』は一丸となって、押し寄せてくるのですが、

『加治田勢』はその激戦の中で劣勢となっていきました。

しかしそんな中、[湯浅讃岐]らが敵勢力を追い詰めて、勝利に導くことになるのでした。


一方で《関城》側では、[斎藤利治]が休息をとっており、

[織田信長]に援軍の派遣を要請。

[信長]はその意見を受け入れ、急遽援軍を派遣します。

[利治]は『加治田勢』を率いて東から、[信長]からの援軍は南と西から攻撃し、

《関城》を退去するのでした。


[長井道利]は、《関城》の頑固さが不十分であり、

また[信長]への内通者がいたために、徹底抗戦をすることができませんでした。


戦後、《関城》は廃城となって、《兼山》城主となった[森長可]の支配下に入りました。

また、《加治田城》については、[斎藤道三]の近親である、

[斎藤利治]が、[織田信長]の命令により、城主を継ぎました。
スポンサーサイト
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

リンク

プロフィール

エックス

Author:エックス
ウェブコンサルタント
(文章クリエイター)
研究者
(物理、数学、史学)

基本、日記はレビューが主になっています。
いい加減な感想などを書きたくなくて、
私自身も本気で見ているドラマや映画ばかりなので、
熱くて長いレビューになったりしています。

現在は、海外ドラマは『24-TWENTY FOUR-』『PRISON BREAK』
アニメは『プリキュア』などのレビューになっています。

昼間は、お仕事と、
大学時代から引き続き物理、数学の研究。
また、歴史(中国・三国時代史他)の研究。

夜は、アイドルマスターのプロデューサー、もしくはドリームクラブです。

カテゴリー

フリーエリア

ブログ内検索

RSSフィード

ブロとも申請フォーム

最新の記事

月別アーカイブ

最近のコメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。